日記・コラム・つぶやき

2015年11月18日 (水)

祖母は軍事工場で亡くなった

祖母が生れたのは明治23年。
今から、125年前です。(現在2015年)

この祖母の形跡を辿って、
役所に行っても、
『保存期間を経過し廃棄済みのため、交付出来ない』
と言う、返事が返って来ることでしょう。

亡くなったのは、
昭和14年ですから、私が生れる以前です。

『おふくさん』
父はそう呼んでいました。

これまで忙しい生活をしていたのですが、
それでも、保存期間が過ぎないうちに取り寄せておいたのです。

記載されてる亡くなった住所を調べてみると

『三菱の軍事工場』でした。

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祖母の亡くなった所

『三菱航空会社製作所』

この場所は現在の地図を重ねてみると、
『西大井広場公園』になっていました。
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西大井一丁目町会ホームページ>こちらより拝借<(_ _)>
http://www.nishi-1.com/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E4%BA%95%E4%B8%80%E4%B8%81%E7%9B%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

三菱が戦時中、戦車を作っていた工場だったそうです。

祖母はここで、働いている最中に倒れて亡くなったのです。
この時、父は戦地に行っていて留守でした。

もう一度、当時の地図と現在と重ねてみます。
この真ん中の道は、『光学道り』とよんで、子供の頃から慣れ親しんでいました。

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一丁目町会のHPの
情報によると、

この付近の住民は
戦時中
強制的に疎開
させられたそうです。

(しかし、
空襲の被害は受けませんでした)

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太平洋戦争下、昭和19年に日本光学と三菱重工業の周辺の住民は強制疎開が布かれ、人々は地方へ疎開していった。その為森前町の人口は減り、町を行き通う人は疎らであったことを記憶している。

「日本光学」「三菱重工業」「小野学園」の3者の占める敷地面積は、
町内の約50%を占めていたと思われる。。。

昭和12年7月7日「日支事変」が勃発し、多くの兵隊さんが品川駅と大崎駅から品鶴線を利用して戦地へ行った。原の踏切番のおじさんが軍用列車の通過時刻を教えてくれて、皆で日の丸の小旗を振って見送ったものだった。

当時、父は22歳。戦地に向かう人の波の中に、若き日の父は居たのでしょう。

幼い頃、お祖父さんに手を引かれて、品鶴線の電車を見に行った事を覚えています。
私は戦後生れですけれど、お祖父さんは当時の事を思い返していたのかも知れません。

明治・大正時代の森前町一帯は民家は少なく殆ど田畑であった。とありますが、
私の実家は隣町ですが、家の建つ前は竹藪だったと聞いています。
狐や狸も出たそうです。

2015年5月 9日 (土)

戦争に行った父の思い出

今、生きていれば丁度100歳です。
父は大工で仕事は家でしていましたから、仕事先に行っていて居ない事もありましたが、思い出すと大抵は家に居た様に記憶しています。私が学校に行っている間に仕事に出ていたのでしょう。食事も家族全員が揃っていました。晩酌にお酒を飲むのが日課でした。強くないので日本酒なら一合位でもう顔を赤らめていました。そして戦争の時の話をよく聞かされました。

そんな時は『あっ、又か』と、宿題を理由にその場からよく退散したものですが、
今になってみると、もっとよく聞いておけばよかったと思っています。

聞いた事を頼りに、調べて見るといろいろな事が解ってきました。

『兵隊に7年、行っていた』
これは、『*日中戦争』に、行っていたのです。
そして、
『〇〇さん、何とか、かんとか・・・』と、云われたと云う。
そのしゃべり方は、中国の人が話す様な抑揚で名前の〇〇は音読み。
中国の人と話をした事があるのです。

父は背が高くって、
『兵隊でも並んで後ろから三人位は、大体背は同じだった』

『馬は人参をやると、こんな風に(と、顔をよじらす様にして)喜ぶんだよ』
『お腹がつまると、お尻から手で掻き出してやるんだ』
『宮様の・・・』と、これは確かに聞いたのですけど、
言い掛けてから、下を向いて話すのを止めてしまったと覚えています。

よく、馬の世話の話が出て来ました。まさか、馬に乗れる身分ではないですから、
きっと、宮様とか偉い人の馬の世話役をしていたのではないのかと推測しています。
ですから、本当の危ない所には行っていなかったので、
それで無事に帰って来られたのではないかと思っています。

起床ラッパで起こされて
洗面器一杯の水で、何から何まで済ませ、
厳しくって、遅かったりモタモタなんかしてたら、上官からピンタが飛んで来たそうです。
野に伏し、山に伏し、今でも腰が痛いのはそのせいだとも。

小学生の私に話すのですから、その範囲での話です。
それでも、もっともっと話したかった事が山ほどあったのだと今思います。

『生きている牛の味をみた』
えっ、
『尻ぺたを削いで、後に灰を塗っとくんだ』

この話が精一杯だったのだと思います。

私は子供ながらにもこれだけは聞いてはいけない事と
何故が解っていたのですが、ある時、思い切って口に出しました。

『人を殺した事あるの?』

父は口を真一文字に結んだまま下を向いてそれっきり黙り込んでまいました。

父は『正直まーちゃん』と云われる程、人が良く
それでは商売にならないと、母は見かねて仕事を手伝うようになったのだと。

正直だから仕事だって誤魔化さないからいい仕事をしました。
近所でも評判で、時には遠くの仕事も頼まれてもいました。
父は仕事一筋、母が経理担当。二人三脚で良い夫婦でした。

後日、母がポッツリと、
『にんく(人件費)を削ったら可愛そうだから、しなかったよ』と、

つまり、仕入れた材料にはマージンを掛けたけれども
職人に支払う人件費は頭をはねずにそのまま渡してあげたのだと。

これは、本来の日本人の魂をもった本当の姿ではないでしょうか。

それが、訳の判らない『天皇の命で戦争に駆り立てられた』のです。

*wikipediaより
日中戦争は、1937年(昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした。 中国側は、抗日戦争と呼称している

2015年1月15日 (木)

亡き母から聞いた祖父の話と南朝の子孫

亡き母から聞いた祖父の話

祖父が、祖先の事を調べて(多分お寺さんに行って調べたのだと思う)ある家を訪ねたそうです。
『昔、お宅とうちは親類だった』と、話をしたら、
玄関先でお茶を出されたけれど、”それでおしまい”だったと話してくれた事がある。
そう言えば、『兄弟、他人の始まり』と云う諺もある。

後醍醐天皇の子供は、30人以上いて、その子供が全国に散らばりました、その子孫はそれはもう今では外国に散らばった人も含めて何千万人いるのではないかと(゜Д゜)
参考→万世一系

後醍醐→尊良親王→尊良親王第一宮・・・
以下はwikipadiaからです。

尊良親王第一宮>
延元4年/暦応2年(1339年)3月北畠顕信らに奉じられ、再び伊勢を出航して東国へ向かった。(『元弘日記裏書』)

南北朝の争乱の頃の当主は景村で、新田義貞次いで義興に味方して南朝に忠勤し、従五位に叙せられ、豊島郡の他に足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡に所領をもって豊島氏中興の祖と呼ばれた(ただし、「景村」の存在についてはまだ証明されていない)
が、南朝方についたという景村、輝時の事績は「泰盈本豊島家系図」や「道場寺過去帳」に見える・・・・了
と、あります。

武蔵国・・・
江戸が東京府となった頃、
東京府南豊島郡・・・・
その後、
東京府豊多摩郡・・・・に更正。
人の和宮の謎を追って 調べるうちに『醍醐家』の存在を、発見しました。
この氏の由来を聞いてみたいです。
母の実家はここの近くなのです。これも母から聞いた話なのですが、
その昔は『醍醐』と云っていたそうです。それが周りに『宇田川』が多くって”宇田川”にしたと云うのです。私が「何で?」と聞いたのですが、母も何でだか解らないと云う様な不思議そうな顔をしていましたがとうとうその返事は返って来ませんでした。
後醍醐天皇の子孫だとも云っていました。私はその時の母の様子から、話してはいけない事を話してしまったと云う様な印象を受けました。その時の母の年齢もゆうに越え、今になって、歴史を紐解いて解った事は、母の育った時代は、へたな事を云ったら大変な時代だったのです。
まだ健在の母の妹に確かめてみようと思い、電話で聞いてみました。叔母の話に『ある時、叔父さんが遊びに来て、”この家は京都の公家の流れをくんでいて”と、話を始めた時に人が来てしまい、話が裁ち切れになってしまった。だからその後の話は知らない』と云うのです。話は繋がりますね。ネットで調べてみますと、他の流れからの『醍醐姓』もある様ですが、また別の流れがあっても不思議ではありません。何で親が子供に嘘を教えるでしょうか。それも大事な跡取りに。私は母の話の方を信じます。
年の離れた叔父が生れるまでは、母は跡取りとして育てられました。信じられない方もいられると思いますが、当時は今の時代と考え方が違うのです。叔母が女学校に入る時も、母が親代わりについて行ったと云いますから、叔父が生れてからもその扱いは変わっていなかった様です。よく親(私からみれば祖父母)からいろいろ相談されたとも云っていました。叔母の云う、遊びに来た叔父さんは、もしかしたら妹(叔母)にも話してあげようと考えたのではないかと思うのです。
私の判断では、ご先祖から受け継ぐ大事な『姓』を変えたと云う事は、そこで何か不都合な事があったのではないかと。

上にも書きましたが、
尊良親王第一宮の擁護者であったであろう。『影村』の存在も、何故か歴史上うやむやにされているが、しかし、はっきりと家系図や過去帳にもその名はあると云う。とあります。
何かの不都合で存在を隠したかった、又は消したかったのではないでしょうか。

そうなると、母の話と、とてもリンクしていると思えてならないのです。
勿論、『姓』を変えたのは、この時代とは云いませんが、権力側からしてみれば、
すでに『利用価値のない』存在になって行ったのでしょう。

南朝側の家臣に守られて、この地域にも来ていたのではないかと想像を膨らませてほくそ笑んでいます。歴史はその時の権力者によって書き換えられていますので、ローカルな言い伝えにこそ、その中に真実が含まれていると信じます。
他人の空似、と云いますが、それは他人ではなく、何代か前では祖先が一緒だったのではないでしょうか。

追記<wiki

尊良親王第一宮

尊良親王の第一王子で、母は西園寺公顕の女・御匣殿である(『増鏡』)。吹上本『帝王系図』の巻末付紙によると、諱は居良(いやよし/いやなが)か。元弘2年/正慶元年(1332年)には10歳以下であったというから、生年は元亨3年(1323年)以降となろう。延元3年/暦応元年(1338年)9月宗良親王とともに伊勢大湊を出航するも、伊豆崎にて大風に遇い、遠江井伊城に入る。翌延元4年/暦応2年(1339年)3月北畠顕信らに奉じられ、再び伊勢を出航して東国へ向かった(『元弘日記裏書』)

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。

2014年10月28日 (火)

我が家の歴史

ペリーが浦賀に来航に寄せて
私は手元にある我が家の家系図を、時々取り出しては眺めながら書いているのですが、この江戸の人々は私から見て、4~5代前の先祖の世代にあたります。住んでいたのは江戸ですが、きっと口伝えにこの話を聞いたと思います。幼い頃祖父の家で育った私は、その長閑だった風景を思い出します。そこは今、新宿と呼ばれていますが、東京大空襲で丸焼けになっています。亡き母の話では空襲前の家は茅葺の大きな家で、庭には柿ノ木が三本あってそれはもう、食べきれない程実ったそうです。又、(亡母の)おばあさんが、『子供の頃、ちょんまげを結っている人を見た』と言っていたとも聞きました。長い歴史から見れば、ほんの少し前の日本の風景です。
私から見れば曾祖母ですが、明治元年に生まれています。
テレビドラマになった『篤姫』は、明治16年まで生きていました。曾祖母の実家から篤姫の住んでいた千駄ヶ谷までの直線距離は約5km、昔の人の足では近所です。
篤姫の住んでいた屋敷は「徳川様」と云われモダンな洋館建てで、敷地面積十万坪を超えていたと云われる広大な土地だったとか。そこはのちに東京オリンピックで東京体育館が建てられ、屋敷は跡形もなく、一掃されてまいました。
そんな目立ったところでしたから、篤姫の葬儀の際に、沿道に一万人もの人々が集まったと云うのも、「徳川様」の事は広く平民にも知れ渡っていた証拠ですね。
曾祖父は安政6年の生まれですから、この時篤姫は23歳。屋敷までの直線距離はこれも約5km。これでは、知らなかった筈はないと思うのです。もしかしたら、篤姫本人を見ているかも知れません。葬儀の時は、曽祖父は25歳、曾祖母は16歳一緒に葬儀の列にいたかも知れないと思ったりして・・・・そんなロマンに浸りながら書いています・・・
「日本地図」を作った伊能忠敬は、50歳過ぎてから、全国を廻ったのですし、坂本竜馬が各藩に交渉に歩いた距離を考えたことがありますか。母の嫁入りの時は、東京は焼け野原でしたから、大八車に荷物を乗せて祖父が、新宿から品川の父の家まで歩いて来たとか。昔の人は歩くのが交通手段だったのです。(祖父は94歳で亡くなっています)
そう言えば子供の頃、家に大八車があった。真相は分りませんが、もしかしたらその時の大八車だったのかも知れないと、今にして思うのですが、確かめようもない。。。

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