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2015年5月 9日 (土)

戦争に行った父の思い出

今、生きていれば丁度100歳です。
父は大工で仕事は家でしていましたから、仕事先に行っていて居ない事もありましたが、思い出すと大抵は家に居た様に記憶しています。私が学校に行っている間に仕事に出ていたのでしょう。食事も家族全員が揃っていました。晩酌にお酒を飲むのが日課でした。強くないので日本酒なら一合位でもう顔を赤らめていました。そして戦争の時の話をよく聞かされました。

そんな時は『あっ、又か』と、宿題を理由にその場からよく退散したものですが、
今になってみると、もっとよく聞いておけばよかったと思っています。

聞いた事を頼りに、調べて見るといろいろな事が解ってきました。

『兵隊に7年、行っていた』
これは、『*日中戦争』に、行っていたのです。
そして、
『〇〇さん、何とか、かんとか・・・』と、云われたと云う。
そのしゃべり方は、中国の人が話す様な抑揚で名前の〇〇は音読み。
中国の人と話をした事があるのです。

父は背が高くって、
『兵隊でも並んで後ろから三人位は、大体背は同じだった』

『馬は人参をやると、こんな風に(と、顔をよじらす様にして)喜ぶんだよ』
『お腹がつまると、お尻から手で掻き出してやるんだ』
『宮様の・・・』と、これは確かに聞いたのですけど、
言い掛けてから、下を向いて話すのを止めてしまったと覚えています。

よく、馬の世話の話が出て来ました。まさか、馬に乗れる身分ではないですから、
きっと、宮様とか偉い人の馬の世話役をしていたのではないのかと推測しています。
ですから、本当の危ない所には行っていなかったので、
それで無事に帰って来られたのではないかと思っています。

起床ラッパで起こされて
洗面器一杯の水で、何から何まで済ませ、
厳しくって、遅かったりモタモタなんかしてたら、上官からピンタが飛んで来たそうです。
野に伏し、山に伏し、今でも腰が痛いのはそのせいだとも。

小学生の私に話すのですから、その範囲での話です。
それでも、もっともっと話したかった事が山ほどあったのだと今思います。

『生きている牛の味をみた』
えっ、
『尻ぺたを削いで、後に灰を塗っとくんだ』

この話が精一杯だったのだと思います。

私は子供ながらにもこれだけは聞いてはいけない事と
何故が解っていたのですが、ある時、思い切って口に出しました。

『人を殺した事あるの?』

父は口を真一文字に結んだまま下を向いてそれっきり黙り込んでまいました。

父は『正直まーちゃん』と云われる程、人が良く
それでは商売にならないと、母は見かねて仕事を手伝うようになったのだと。

正直だから仕事だって誤魔化さないからいい仕事をしました。
近所でも評判で、時には遠くの仕事も頼まれてもいました。
父は仕事一筋、母が経理担当。二人三脚で良い夫婦でした。

後日、母がポッツリと、
『にんく(人件費)を削ったら可愛そうだから、しなかったよ』と、

つまり、仕入れた材料にはマージンを掛けたけれども
職人に支払う人件費は頭をはねずにそのまま渡してあげたのだと。

これは、本来の日本人の魂をもった本当の姿ではないでしょうか。

それが、訳の判らない『天皇の命で戦争に駆り立てられた』のです。

*wikipediaより
日中戦争は、1937年(昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした。 中国側は、抗日戦争と呼称している

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コメント

中国の背後にはドイツの軍事顧問団がいたようです。

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