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2015年1月15日

2015年1月15日 (木)

亡き母から聞いた祖父の話と南朝の子孫

亡き母から聞いた祖父の話

祖父が、祖先の事を調べて(多分お寺さんに行って調べたのだと思う)ある家を訪ねたそうです。
『昔、お宅とうちは親類だった』と、話をしたら、
玄関先でお茶を出されたけれど、”それでおしまい”だったと話してくれた事がある。
そう言えば、『兄弟、他人の始まり』と云う諺もある。

後醍醐天皇の子供は、30人以上いて、その子供が全国に散らばりました、その子孫はそれはもう今では外国に散らばった人も含めて何千万人いるのではないかと(゜Д゜)
参考→万世一系

後醍醐→尊良親王→尊良親王第一宮・・・
以下はwikipadiaからです。

尊良親王第一宮>
延元4年/暦応2年(1339年)3月北畠顕信らに奉じられ、再び伊勢を出航して東国へ向かった。(『元弘日記裏書』)

南北朝の争乱の頃の当主は景村で、新田義貞次いで義興に味方して南朝に忠勤し、従五位に叙せられ、豊島郡の他に足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡に所領をもって豊島氏中興の祖と呼ばれた(ただし、「景村」の存在についてはまだ証明されていない)
が、南朝方についたという景村、輝時の事績は「泰盈本豊島家系図」や「道場寺過去帳」に見える・・・・了
と、あります。

武蔵国・・・
江戸が東京府となった頃、
東京府南豊島郡・・・・
その後、
東京府豊多摩郡・・・・に更正。
人の和宮の謎を追って 調べるうちに『醍醐家』の存在を、発見しました。
この氏の由来を聞いてみたいです。
母の実家はここの近くなのです。これも母から聞いた話なのですが、
その昔は『醍醐』と云っていたそうです。それが周りに『宇田川』が多くって”宇田川”にしたと云うのです。私が「何で?」と聞いたのですが、母も何でだか解らないと云う様な不思議そうな顔をしていましたがとうとうその返事は返って来ませんでした。
後醍醐天皇の子孫だとも云っていました。私はその時の母の様子から、話してはいけない事を話してしまったと云う様な印象を受けました。その時の母の年齢もゆうに越え、今になって、歴史を紐解いて解った事は、母の育った時代は、へたな事を云ったら大変な時代だったのです。
まだ健在の母の妹に確かめてみようと思い、電話で聞いてみました。叔母の話に『ある時、叔父さんが遊びに来て、”この家は京都の公家の流れをくんでいて”と、話を始めた時に人が来てしまい、話が裁ち切れになってしまった。だからその後の話は知らない』と云うのです。話は繋がりますね。ネットで調べてみますと、他の流れからの『醍醐姓』もある様ですが、また別の流れがあっても不思議ではありません。何で親が子供に嘘を教えるでしょうか。それも大事な跡取りに。私は母の話の方を信じます。
年の離れた叔父が生れるまでは、母は跡取りとして育てられました。信じられない方もいられると思いますが、当時は今の時代と考え方が違うのです。叔母が女学校に入る時も、母が親代わりについて行ったと云いますから、叔父が生れてからもその扱いは変わっていなかった様です。よく親(私からみれば祖父母)からいろいろ相談されたとも云っていました。叔母の云う、遊びに来た叔父さんは、もしかしたら妹(叔母)にも話してあげようと考えたのではないかと思うのです。
私の判断では、ご先祖から受け継ぐ大事な『姓』を変えたと云う事は、そこで何か不都合な事があったのではないかと。

上にも書きましたが、
尊良親王第一宮の擁護者であったであろう。『影村』の存在も、何故か歴史上うやむやにされているが、しかし、はっきりと家系図や過去帳にもその名はあると云う。とあります。
何かの不都合で存在を隠したかった、又は消したかったのではないでしょうか。

そうなると、母の話と、とてもリンクしていると思えてならないのです。
勿論、『姓』を変えたのは、この時代とは云いませんが、権力側からしてみれば、
すでに『利用価値のない』存在になって行ったのでしょう。

南朝側の家臣に守られて、この地域にも来ていたのではないかと想像を膨らませてほくそ笑んでいます。歴史はその時の権力者によって書き換えられていますので、ローカルな言い伝えにこそ、その中に真実が含まれていると信じます。
他人の空似、と云いますが、それは他人ではなく、何代か前では祖先が一緒だったのではないでしょうか。

追記<wiki

尊良親王第一宮

尊良親王の第一王子で、母は西園寺公顕の女・御匣殿である(『増鏡』)。吹上本『帝王系図』の巻末付紙によると、諱は居良(いやよし/いやなが)か。元弘2年/正慶元年(1332年)には10歳以下であったというから、生年は元亨3年(1323年)以降となろう。延元3年/暦応元年(1338年)9月宗良親王とともに伊勢大湊を出航するも、伊豆崎にて大風に遇い、遠江井伊城に入る。翌延元4年/暦応2年(1339年)3月北畠顕信らに奉じられ、再び伊勢を出航して東国へ向かった(『元弘日記裏書』)

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。

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